「風になりたい」60代は第2思春期

人生カウントアップ!さていくつまで数えられるか!?

突然ですが、『山椒魚』

中学の時の教科書に、井伏鱒二の「山椒魚」が載っていた。大抵は頭の上を通り過ぎるだけなのだが、あの時は、妙に引っ掛かるものがあった。
山椒魚」は、何を例えているのだろう…?「蛙」は、何に置き換えて読めばいいのだろう…?
思春期の少年は、安直に「『蛙』は僕だ」と、考えた。そうなると、頭の中は、一気に作品から離れ、「山椒魚」批判でいっぱいになる…
なんて野郎だ!山椒魚のやつ。人から自由を奪い取った挙げ句、外で自由に生きている者たちを、蔑む…果てには、生き方まで講釈しやがる…
当時は、こんな感じだったかな?ちょっと恥ずかしいですが…
でも、「蛙」は、当時の僕の妄想のように怒ってはないのですね。常に彼は冷静に「山椒魚」を見守っている…
この理不尽野郎をここまで、感情の起伏なく、見つめられるものとは、一体何者なのだろう…?
ここで、やっと一つ答えが出た。
「『蛙』は僕なんかであるはずがない。」ということだ。
「もうだめかもしれない…」
蛙の言葉だ。しかし、山椒魚を怒ってはないという…生涯にわたって、自分を閉じ込め続けた、この理不尽を前にしても、怒ってないという…
あの頃、僕は、ただありえないと、思った。

それ以後、思春期から青年期、自分なりに必死で生きてきたように思う。そして、いつか忘れてしまった…
あれから50年…長かったような、短かったような…