「風になりたい」60代は第2思春期

人生カウントアップ!さていくつまで数えられるか!?

万葉東遷~そのおぼろげな輪郭

買い出しが終わって、まったりタイム…

今日は久しぶりに、妄想の世界で、羽を伸ばしてみよう…

 

万葉集」の描く風景が、既存の解釈ではどうも腑に落ちない…

これ、意外に多くの方が持っていらっしゃるのではないでしょうか…

いわゆる大和の箱庭的風景の中では、どうしても落ち着かない歌がある…

で、一つの合点がいく解釈を与えてくださったのが、

”古事記日本書紀万葉集もすべて豊国で作られ、豊国の風景が詠われ、豊国(ヤマト王朝)の歴史が綴られている”

という福永晋三氏でした…

それが、8世紀に畿内に歴史の舞台が東遷していく…

東遷して行ったってのは、断絶してないってこと…それは、古代史好きな方なら、まず、疑問を持っておられるはずの北九州と畿内の地名の重なり…古の文化をそのままもって、畿内にやってきた…そして、新天地の風景に古の名前をかぶせて、故地の物語を重ねていく…それが後世の物語につながって…妄想は果てしなく広がる

では、なぜ、古代史の舞台は、東遷していったのだろうか?

やはり、多くの方が、指摘されている通り、「鉄」が鍵を握っているような…

”古代の製鉄遺跡は、旧国別で見ると、南は肥後、北は陸奥まで確認されており、陸奥が73遺跡、354基とダントツで、その内、福島県は50遺跡、250基である。その次に多いのは吉備(備前・備中・備後・美作)の54遺跡、187基で、さらに、筑前・越後・上野・出羽・下総・武蔵・近江・越中と続いている。”

          『東北地方における古代・中世の製鉄遺跡の様相』能登谷宣康

東北までの製鉄の伝播は早い…

北九州での鉄の覇権を巡っての王権の興亡の歴史を、福永晋三氏は神社伝承から掘り起こしていらっしゃいますが、それとは別に、陸奥からリマン海流に乗って、ウラジオストック、四隅突出型墳丘墓の原型のある古の高句麗の鉄鉱石の産地から、北陸加賀…そこから、対馬海流に乗って、陸奥へ…という三内丸山の時代から続くルート…

しかし、半島をとおしての鉄鉱石の入手が難しくなって来た時、人々は、どこに活路を見いだしたのだろうか…答えは、みなさんご存じの『砂鉄』…

白村江での敗戦で、半島での鉄の利権を、完全にあきらめなければならなくなったからには、都を北九州に置いておく理由はもはやない…未来を東北・関東の砂鉄を使った鉄作りにかけるしかない…

それが証拠に、奈良盆地の入植は難波方面からではなく、尾張方面から始まる…

倭国の新たな武器、砂鉄製鉄の技術は、吉備、近江から関東にあっという間に広がる…新技術は東から…

大陸からのプレッシャーに翻弄される北九州…だが、その間、関東で、鉄鉱石依存から脱却するための新技術を着々と完成させ力を蓄えていった…

そして、奈良へ…

まずは、大物主が鎮座して、土地を治める…

つまり、砂鉄を利用した新しい製鉄を束ねる祭りの場が必要になり、大物主をまつる集団が移住していく…そこに、磁石で吸い寄せられるように、吉備も筑紫も豊も合流していく…

大和への入植者たちは、どんな思いで新天地に『万葉』の世界を持ち込んだのだろう…ひょっとして『竹取物語』の謎解きもできるかも…

終わりなき娯楽、古代妄想は、まだまだ膨らんでくれそうです…

 

今後、万葉の歌に命が吹き込まれ、よみがえってくるような考察が、多くの立場から、出てくることを期待してます…

 

…どうあれ、五七五七七、三十一文字をコミュニケーションツールとして貴族から庶民まで使いこなせる共通の文化の上に東も西も変遷してきたのだから…