天智と天武…古代史上のこの二人の有名人の関係を、スッキリと説明してくれる考察に未だに出会わない…
一筋縄ではいかない軋轢がこのお二人にはあるのは、確かなんだが…その根源にあるものが未だにわからない…単に政治的対立ということでは片付けられない何かがあるような…
それに対して、周りの女性は、お二人の間を盛んに行き来する…このあたり、今の常識で、男女の間を考えてはいけないんだろうが…当時の関係性そのものがよくわからない…
まず、一生懸命理由付けをしようとするが、どうもしっくりこない額田王の動き…
それに、天武との間の娘の動きもそうだ…嫁いだからには、夫のそばで添い遂げますなんていう、時代劇ふうの関係ではない…なんだか、どうあっても”私は○○の娘”なんていうプライドがあるような…
とすると、わからないのが、持統天皇…”天智の娘”
天武の妻として寄り添っているようにも見える…
他にも、お二人を支えたであろう豪族たちの動きも、なんだか納得できない…
額田王と共に動いているように見える物部遠賀団…
まっ、総じて激動の時代だったってことはわかる…
今日、福永晋三氏の「千手氏と天智天皇-嘉穂郡誌と日本書紀-」を拝聴した…
その中で、あの有名な志貴皇子の歌の新解釈が出てきた…
”石走る垂見の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも”
石(船)の走る垂見の港のほとりの蕨が萌え出る春になったことだなあ…
=やっと天武帝の朝廷から父天智帝の朝廷に戻ったことだなあ…
そんなに戻さなければならないものがあったのだろうか…あったとすればそれはなんなのだろうか…
”鉄は力なり”お二人ともその鉄の力によって立っておられただろう…
というより、お二人を支えた豪族たちが何よりも”鉄”を力としていただろう…
”鉄鉱石”の安定的な供給…これが古代王権の変わらぬ命題でもあった…
あの「魏志倭人伝」の”魏”も”邪馬台国”の”鉄”を欲していただろうし…
さっ、そろそろ寝ようかね…
その命題に、だれが合理的な解を導き出すか…
その軋轢だったのだろうか…
そして、最終的には、「豊」の国の伝統的な統治を多くの豪族が望んだ…ということなのか…