"『日本書紀』は、天武天皇が天智天皇を、入水に至るまで追い詰めたことを隠す…「壬申の乱」の前に、病死したとした…この天武天皇の御心はどんなものであったろう…"
などと、書いてしまったが、福永晋三説は、ズバリ指摘していた…
”『古事記』は奈良時代に編まれているのに、何故、「推古天皇」で終わるのか?”
その答えは、”豊国の天皇を推古天皇で終わらせようとしたから”
問題は、”終わらせようとした”その主語…
それは、『隋書』に出てくる”阿毎多利思比孤=聖徳太子”…そして、”蘇我馬子”
「是歳、皇太子・嶋大臣共議之、録天皇記及國記、臣連伴造国造百八十部并公民等
本紀」 『先代旧事本紀』
これを見ると、確かに、天地開闢から推古天皇までの歴史を記したのは、”聖徳太子”と”蘇我馬子”だと読める…
”大海人皇子”は”阿毎多利思比孤”の孫…となれば、その遺志を引き継ぎ、”中大兄皇子”と終生対峙していた…
そう考えると、「壬申の乱」前後の推移を、すんなりと理解することはできる…